第21回 未病を治す

第21回 未病を治す

小池 智子
慶応義塾大学看護医療学部准教授

未病を治す

黒岩:政府はアベノミクスで成長戦略に取り組んでいますが、神奈川県がその実行部隊を引き受けようと考えています。私は政府の健康・医療戦略室の参与を務めていますので、まさに国と上手く連動して挑戦していく態勢が整っていると言ってもいいでしょう。神奈川県が目指すのはヘルスケア・ニューフロンティア。急速に進む超高齢化を乗り越えるために、神奈川県独自のモデルを作ろうとしています。このグラフで一瞬にして分かりますよ。上が1970年、下が2050年の人口分布です。1970年には85歳以上の層はほとんどありませんが、2050年に最も多いのがこの層なのです。ピラミッド型が逆ピラミッド型になるわけで、こういう時代になれば今のシステムが通用しなくなることは明白です。

小池:分かりやすいグラフですね。

黒岩:神奈川県ではこの問題に対して、二つのアプローチを行います。最先端医療と未病を治すという発想です。最新の技術を駆使して、個別化した的確な医療を行うというものと、大勢の高齢者が一斉に病気になったら支えることが難しくなりますので、未病を治すというものです。また、この問題を乗り越えていくプロセスそのものが経済のエンジンを回していくことになるのです。先日、アメリカでもプレゼンテーションをしてきましたよ。

小池:アメリカではどんなお話をなさったんですか。

黒岩:ヘルスケア・ニューフロンティアの話の中で、未病についても触れました。「皆さん、健康ですか」と尋ねると、頷かれます。でも「完璧に健康ですか」と聞くと、笑っているんです。そこで、私は未病という考え方を説明しました。この図を示し、病気と健康はきちんとした線引きがされているのではなく、グラデーションになっているんだと言ったんです。未病を治すにあたって、大事なのは食のあり方です。翻って、アメリカ人はどんな食生活をしているでしょうか。カロリーの高いものや甘いものをたくさん食べ、肥満になりジムで汗を流しているけれど、それはおかしいんじゃないですか?日本食を見てください。ヘルシーでバランスもとれている。日本人は食の中から未病を治していく知恵があるんです。そう訴えたいんです。

小池:そうでしょうね。

黒岩:神奈川県の課題は日本の課題でもありますし、先進国が共通に抱える課題でもあります。医食農同源で未病を治すというアプローチが大切だと健康・医療戦略室でもさんざんアピールしていたんです。ところが、報告書を見ますと、農林水産大臣の名前が入っていないんです。医食農同源なんだから農林水産大臣の名前も入れるべきだと、強調してきましたよ。

小池:安倍総理も医食農同源とおっしゃっていますよね。

黒岩:農林水産省の方の成長戦略ではもちろん農林水産大臣の名前が入っているんですが、健康・医療戦略室の方の成長戦略に名前が入っていないというのはおかしいです。健康医療は厚生労働省の仕事で農水省は関係ないということなんですね。いまだに縦割り行政の強さを実感しますね。チーム医療における職種間の壁の話と同じことだと思います。統合するより、分割する方が楽なんですよ。

小池:しかしながら、医療経済の観点からすると縦割り行政は非効率的ですし、無駄なことも多いのではないでしょうか。

黒岩:食のあり方を改善することで病気が治るのであれば、薬はいりません。日本の戦略の中で日本食を見直そうと言っているのに、そういう状況のままなんです。何のために、どんなことをしているのかという目的を共有しないと、縦割り行政の役所の壁は突破できません。ですから私は「いのち」というキーワードを多用しているんですが…。

小池:キーワードはとても重要ですね。QOLも大切な概念ですが、まだ社会でひろく共有されていないせいか、このキーワードではなかなかまとまらないですものね。重要な言葉ではありますが、「気」が高まりません(笑)。

小池先生に期待すること

黒岩:小池先生は同志という感じですよ(笑)。看護師はいのちを支える仕事ですから、いのちに向き合った教育を期待したいです。今回はあまりお話しできませんでしたが、死生観を重視してほしいですね。いのちとは何だということを考えないといけません。病気とは何か、医療とは何か、死ぬとはどういうことかなどの原点を見つめさせてほしいですね。すぐには答えが出なくてもいいですから、考える機会を持つことが大切ではないでしょうか。学生さんたちは目の前のことを覚えたいとか、早く何かを身につけたいという希望で一杯でしょう。それも必要なことですが、生きているということはどんなことか、いのちとは何かということを考えさせる教育ができるといいですね。患者さんやご家族が安心できるケアを行える看護師を育てて欲しいです。

小池:「いのち」に立ち返って考えるということは本当に重要です。健康や生活を支援するさまざまな方策を構想していくとき、それを考える根底にあるものが「いのちを大切にすること」であることに気づかされます。先ほど、知事がお出しになった2050年の人口分布を拝見して、既存の基盤に立つだけでは問題解決ができないことが分かりました。教育の場で、既存の知識や既にできあがっている制度などの仕組みを教えても、5年後、10年後の社会状況や健康問題は違っているでしょうから、そのままでは役に立たないかもしれません。そこで、変化する状況や、将来において想定される問題にどのように立ち向かっていくことができるのかが問われます。どのような状況においても人々の「いのちを大切にする」ことベースにして、問題に立ち向かっていく構想力を育てたいですね。これまでのエビデンスに基づいた知識や看護技術を習得することは重要です。同時に、心理や命の大切さなどどのような時代においても変えてはいけないことを基盤に据えて、一方では、社会や生活の変化に対応して、よりよいかたちにそれを変えていく力や、柔軟な構想力を高める教育に重点を置いていきたいと思っています。

黒岩知事に期待すること

小池:神奈川県は全国の中でも人口一人あたりの看護師数が少ない県ですが、黒岩知事が年頭に出された「医療のグランドデザイン」の中に、3年目から5年目の看護師のキャリア形成を支援するとありました。素晴らしいですね。是非、進めていただきたいです。例えば、義塾大学病院でも1年目の看護師の離職率は1%未満と少ないのですが、3年目から5年目には退職が多くなっていきます。神奈川県をはじめ多くの病院が同じ傾向を示していると思います。しかし、辞められた方たちを調査しますと、そのうちの5割から7割の方がほかの医療機関や福祉関連施設などで看護職として働いているのです。そして、辞めた方たちの半数以上が「慶應義塾大学病院で働いたことが次の仕事に就くうえでアドバンテージになっている」と答えています。

黒岩:興味深いですね。

小池:3年未満で看護職を辞める方を少なくすることが大事だと考えています。3年以上の臨床経験があれば、その人の「エンプロイアビリティ(employability)」、つまり「雇用されうる力」になります。経験を積み臨床能力を高めるとエンプロイアビリティも高まります。個人の付加価値、またはセルフ・ブランドを高めると言い換えることもできるでしょう。看護職の能力として獲得しているものですから、どこででも通用します。看護師は専門職ですので、必ずしも一つの病院に留まる必要はありません。病院だけでなく、訪問看護ステーションや介護施設、海外での国際支援などの色々な職場で働くことができるからこそ、専門職なのです。看護職が看護の労働市場から撤退させず、そういった健全な流動性を保持することの方が大切です。その意味で、黒岩知事が3年目から5年目の看護師を定着させることに県の予算を使うという戦略を出されたことはとても素敵です。

黒岩:ありがとうございます。

小池:いい人材を育てることができれば、いい人材が引き寄せられてきます。優れた現任教育の仕組みがあれば、また新しい方が入ってくるものです。ある病院で教育を受け臨床経験を積んだ看護職が、そこで培った力を基盤に他の現場でも活躍しているのであれば、その病院は看護職のエンプロイアビリティやセルフブランドを高めていると、社会に認知されるでしょう。そうすると、この病院の教育を受けたいという新しい人材が集まってくるようになります。看護師をひたすら定着させようとするだけのアプローチは不毛です。しかし、黒岩知事の戦略は働くことの魅力や働く人の力を高めるようなアプローチですから、さすがだと思いました。

黒岩:これからも心して取り組んでいきますよ。今日はありがとうございました。

小池:こちらこそ、ありがとうございました。最後に、伝言をよろしいですか。黒岩知事と灘高の生徒会長選を戦った加藤眞三先生が「知事に宜しく」と申しておりました(笑)。

黒岩:彼は内科医でしたね。

小池:はい。今は本学の教授です。生徒会長選では黒岩知事が当選なさったとうかがっています(笑)。

小池 智子 プロフィール

1960年に岩手県釜石市に生まれる。
1982年に慶應義塾大学医学部附属女子厚生学院を卒業後、慶應義塾大学病院に入職する。
以後13年間、臨床や現任教育に従事する。
2001年に東京医科歯科大学大学院保健衛生学研究科博士課程を修了する。
2001年に慶應義塾大学看護医療学部に講師として勤務する。
2007年に慶應義塾大学看護医療学部・大学院健康マネジメント研究科准教授に就任する。

その他役職等
慶應義塾大学病院看護部キャリア開発センター副所長
日本看護管理学会理事、日本在宅看護学会理事、
神奈川県看護協会・東京都看護協会等の認定看護管理者教育課程「ファーストレ ベル」、「セカンドレベル」講師、
千葉大学認定看護師教育課程(乳がん看護)講師 など