私達ナースです(看護師の声)

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Vol.15  「おっぱい外来」のパイオニアである助産師 岸和田徳洲会病院 看護部長 熊野二三江さん

「おっぱい外来」のパイオニアである助産師
岸和田徳洲会病院 看護部長 熊野二三江さん

助産師による「おっぱい外来」を行っている病院が増加している。ここでは助産師が出産直後にトラブルを抱えたり、母乳の出が悪い患者さんにマッサージを施したり、相談などを受ける。岸和田徳洲会病院の熊野二三江さんは看護部長という要職にありながら、おっぱい外来のパイオニアとして現在も臨床の現場で活躍中である。
熊野さんは「いろんな管理者のあり方があると思いますが、私はあくまでも現場から離れないでいたい」と言う。その現場へのこだわり、これまでのキャリアについてお話を伺ってきた。

岸和田徳洲会病院に来るまで・・

熊野二三江さんは東京生まれの四国育ちである。小学生のときに香川県高松市に転居し、国立善通寺病院附属高等看護学院(現 国立病院機構善通寺病院附属善通寺看護学校)を卒業した。その学生時代から「生命が芽生える瞬間」に感動を覚え、産婦人科病棟で働くことを夢見ていたという。

「実習中も、お産があったら呼んで下さいねとお願いしていました。とは言っても実習生ですから、もっぱら分娩室の掃除をしていたんですけどね(笑)。看護師には小学生の頃からなりたかったんですよ。高松に来てすぐ、追っかけっこをしていて柱に頭をぶつけたことがありました。そのときに養護教諭の先生が私を背中におぶって病院に連れて行って下さって、その優しさに感動して以来、ずっと看護師を志していました。すぐに助産師学校にも行きたかったのですが、当時まだ兄も大学生でしたので、まずは就職してお金を貯めようと思ったのです。」

高松赤十字病院で経験を積み、念願の助産師免許を取得するべく聖バルナバ病院に附属する聖バルナバ助産師学院(大阪市)に進学した。1年の勉強ののち、助産師資格を得て、聖バルナバ病院に勤務する。以後はずっと助産師としてキャリアアップを図っていくことになった。

「聖バルナバ病院を選んだのは分娩数が多かったからです。当時は東の日赤(日本赤十字社医療センター)、西のバルナバって言われていたんですよ。1969年頃ですから、ベビーブーマーの出産時期にあたっており、分娩数は年間約4000例ほどありました。雰囲気がプロテスタント系ならではという感じでしたし、建物も新しくてよかったですね。」

ちょうど結婚の話も持ち上がった。ご主人は同郷ではあったが企業に勤めるサラリーマンで転勤族だった。

「家庭に入ることも考えたのですが、夫は折角の免許証なんだから、それを生かさないといけないと言ってくれました。家庭にいて、その頃、話題になっていたサラ金や昼メロの話をするばかりになるより、社会で働いた方がいいと思ったようです。長男を産んで2年半ほどは専業主婦をしましたが、それ以外は夫の転勤についていきながら大分市や盛岡市で助産師として働いてきました。」

やがて仙台市に転居し、社会保険病院(現 宮城社会保険病院)に勤務する。その後、仙台徳洲会病院に移り、1997年に看護部長となる。そこでは医療機能評価受審のための準備に奔走することになった。
そして2003年5月、前任者が病気になられたことで岸和田徳洲会病院へ転勤の話がきた。岸和田徳洲会でも医療機能評価の受審を計画しており、熊野さんの持つノウハウに期待が寄せられた。

「仙台に家を建ててはいたのですが、子どもも結婚して独立していましたし、夫も母や叔母の介護のために会社を早期退職して四国に転居しており、私も関西にいた方が都合がよかったんです。バルナバにいましたから、大阪で働くことにも抵抗がありませんでした。」

岸和田徳洲会病院での取り組み

熊野さんが岸和田徳洲会病院で果たした役割は非常に大きい。特筆すべきは「委員会の立て直し」であろう。これにより医療の質も向上し、師長、主任、副主任などの教育も進んだ。

「まずは挨拶の徹底でしたね。それから報告や相談の仕方を教育しました。例えば、結論から述べて、経過や理由を補足していくというようなものです。看護師としてというより、社会人としてどうあるべきかということを教えたつもりです。」

さらに業務改善発表会を充実させ、看護部として様々な業務改善を提案した。これは2年ほど前から業務委員会の中で、各看護単位別に業務改善提案を行ってきたものを発展させた内容にした。結果として業務の効率化が進んだという。

「急性期病院ですからカルテではなく、フローシートを使っているんですね。この看護記録を改善したことは大きかったと思います。そしてクリニカルパスの実用化を通して、看護業務の標準化を図りました。」

ナースステーションの姿も変容した。ナースステーションは、それぞれの師長の裁量でパソコンや備品などが配置されていたが、これを全て共通のルールのもとで配置換えをしたという。これによって看護師が他科に異動してすぐに患者さんの急変に立ち会ったとしても備品を探し回るという時間のロスを防ぐことができる。医療機能評価を受審するときにも、こういった点が高い評価に繋がった。

「看護の標準化を目指していく中で、師長たちが明るくなったことがよかったですね。離職率も低下して、看護師が働きやすい雰囲気になったと思います。先日、総合案内のスタッフに患者さんが『看護師さんへのしつけがいいですね』と言ってくださったらしく、嬉しかったですね。」

おっぱい外来

熊野さんは日本におけるおっぱい外来のパイオニア的存在である。聖バルナバ病院には当時「揉み屋さん」と呼ばれていたマッサージ専門のスタッフがいた。熊野さんは、その技術に改良を加え「熊野流」と謙遜して語る、独自の方法を編み出した。1983年には宮城社会保険病院で「おっぱい外来」を標榜する外来を立ち上げる。全国で初めての試みがスタートしたが、熊野さんは試行錯誤の連続だったという。

「マッサージをするときの指の幅、強さ、抑える場所、スピード、強さなど、ベストな方法にたどり着くまで、多くの時間を費やし、夜も眠れないほどに悩みました。どうしたら手が自然に動くだろう、どうしたら患者さんが痛がらないだろうという悩みですね。ところが、3ヶ月ほど経過したときに、寝ていたら、ふっと光が差したんです。後光というのはこういうものなのかと思いましたね。そして朝起きたら、理想のマッサージができるようになっていました。」

従来、母親からの相談は「出産した病院でのみ受け付ける」という風潮にあった。これを熊野さんは「病院は地域のためにある」と、どの母親からの相談も受け付けられるように改善した。出産間近で転院することを余儀なくされる里帰り出産では、妊婦と病院との間に信頼関係を構築することは難しいというが、トラブルになったときにこそ相談に乗ってもらえる窓口が必要である。
熊野さんは管理職となっても、おっぱい外来を続けている、おそらく日本では唯一の助産師であろう。取材中も予約の電話が何件もかかってきたほど、母親からの信頼は厚い。
熊野さんに、マッサージの習得を目指す助産師へのアドバイスをお願いした。

「患者さんが痛がっているかどうか尋ねながら行うということでしょうか。電車から下りるときも『段差にご注意ください』と言われれば、ホームとの隙間に足を入れてしまうことってないでしょう。それと同じで常に『ちょっと痛いですよ』とか『我慢ね』など声かけを絶えずしてみて下さい。」

今後は・・

岸和田徳洲会病院での今後の取り組みについてお尋ねした。

「現在、産婦人科は21床ありまして、差額ベッド代を頂かずに8室の個室を設けています。これを12床に減床して、全個室にする計画を進めています。セキュリティーへのニーズに合わせた対策ですね。また、これまで医師主導で進められてきた助産師外来を助産師主導にしていきたいと考えています。側臥位分娩や四つんばい分娩など分娩時の体位についても研究の余地があります。」

大学生として・・

熊野さんは現在、神戸市看護大学で研究生として学んでいる。高田昌代教授の指導のもとで母性看護学を専攻している。今年10月には「おしゃぶり」をテーマにした論文を発表する予定だ。

「2009年には大学院を修了する予定でいます(笑)。特に研究者になりたいという希望があるわけではありませんが、勉強することが本当に新鮮ですね。」

メッセージ

最後に熊野さんに助産師を目指す人たちへメッセージをお願いした。

「助産師に向いている人は、前提条件として母性本能があり、赤ちゃんが好きであることが挙げられます。それから、看護師の仕事にはある程度、優先順位をつけて『後回し』にできる業務もあります。ところが助産師はミルクなど時間に追われてしまって、そういった優先順位をつけていくことができません。ですからトータルな管理ができないといけませんね。我慢強さも必要ではないでしょうか。」

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