「医療福祉チャンネル774」というCS放送で「黒岩祐治のメディカルリポート」という番組を放送してきましたが、このたび6周年を迎えることができました。先日、それを記念してスペシャル企画を収録しました。先ごろまとまった新医師臨床研修制度の見直しを検証するという企画で、検討委員会のメンバー、研修を終えたばかりの新人ドクター、指導医など20人が集まって、侃々諤々の議論を行ないました。
平成16年に導入されたこの研修制度で研修医は自分の研修先を希望して選べるようになったため、大学の医局に残る研修医が激減。人材不足に陥った大学は派遣先の地方の病院から医師を引き上げたために、地方の医師不足が一気に加速しました。つまりこの臨床研修制度が地方の医師不足の引き金になったとやり玉に挙げられていたのです。
そして、今回の見直しで2年間の必修科目数を半減するとともに、都道府県別の研修医数の枠を決めることになりました。見直し案がまとまったことを受けての討論でしたから、今後の課題を論じる議論になるのかと思いきや、ほんとうに合意が行なわれたのかどうかすら疑問に思えるような激しい議論のやりとりになりました。
私も議論すればするほど、ワケが分からなくなってしまいそうでした。いったいなんのための見直しだったのか、そもそも見直す必要があったのかどうか、それすら不明でした。確か、地方の医師不足を解消するために議論が始まったはずなのに、必修科目を減らすという結論になったのは何故なんでしょうか?診断と処方がチグハグになっているような印象でした。車のエンジンの調子が悪いと言って修理に出したら、ボディーの塗装をして戻ってきたようなものです。
もともと、この臨床研修制度はそれまで身分も不確かなまま、大学の医局にしばられ、薄給で酷使されてきた研修医の立場を改善するために行なわれた“改革”でした。過労死した研修医の実態が議論に拍車をかけました。その時に、臨床研修期間中に高い臨床能力をつけてもらおうと考え出されたのが、2年間で7つの診療科を回っていくスーパーローテッドという仕組みでした。
研修医を終えた新人たちには概ね好評でした。いろいろな診療科を短い時間ではあっても経験できたことはよかったと言うのです。幅広い臨床能力は確かに向上したというデータもありました。それなのに、何故、今、必修科目を半減しなければならないのか?説得力ある解説はありませんでした。
本来は基礎的な臨床能力は大学医学部の教育の中でしっかりやっておくべきで、卒後にまで持ち込むこと自体が間違っているという主張は確かにそのとおりかもしれません。ただそれは大学教育の見直しの中で論ずるべきで、だからといって卒後の研修科目を減らせばいいというものでもありません。
若いうちに専門教育を進めないと、いい外科医は育たないという主張もありましたが、アメリカではメディカルスクールですから、医学教育そのもののスタートが22歳になります。日本は卒後2年間を経た上で専門教育を始めても24歳からですから、それほどスタートが遅いということではないと思います。
要するに必修科目を減らすというのは妥協の産物だったようです。つまり、そもそも見直し自体が必要ないという意見と臨床研修制度そのものをやめるべきという意見の間をとってまとめた内容だったようです。必修科目数を半減することで、2年間の実習を実質1年間で終えられるようにしたのでした。
臨床研修制度そのものをやめるということはつまり、かつての医局支配と言われた時代に戻したいということなのでしょう。“改革”を元に戻したいという動きはどの世界でもあるようです。医局支配に戻すとはっきり言えるなら、地方の医師不足解消につながるという言い方もカタチの上ではできたでしょうが、さすがにそこまで露骨な表現はできなかったようです。結果として中途半端な妥協に終わったため、チグハグになってしまいました。
その代わりに出てきたのが、都道府県別の研修医の数に枠を設けるという方針でした。これは一見、地方に医師を配置するための方策としては正しいようにも見えます。しかし、よく考えてみると矛盾だらけと言わざるをえません。そもそも地方の医師不足は研修医が来ないからではありません。大学医局が研修先に選ばれず、これまで研修医を労働力としてきた医局が人出不足に陥ったことに端を発しています。
ほんとうは大学での研修を魅力的にすればすむ話です。研修医たちに言わせれば、研修病院として選ぶ際の基準は地方だからとか、大学だからということではない。いい指導医がいて、いい研修プログラムがあるかどうかを判断しているだけだと言うのです。その最も本質部分を見ることなく、研修医の数を都道府県ごとに割り振るという発想はトンチンカンと言わざるをえません。
都道府県別という単位にどれだけの意味があるのでしょうか?臨床研修制度を導入したことで確かに研修医の数は県によって増減していますが、それは病院ごとに違いがあるのであって、地方だから減っていて、大都市だから増えているということでは全くありません。むしろ東京は減っていて、岩手などは増えているのです。
定員枠を設けることの一番の問題は、人気があって研修医が殺到している病院から研修医が強制的に減らされることです。人気があるのはいい研修プログラムを実施しているからなのに、それを無理やり調整するとなると病院スタッフの士気にも影響します。がんばった人が報われる社会でないと活力は出てきません。成功モデルをみんなで共有し、真似ていくようでなければ、事態は改善しません。
驚いたことに検討会の中では、定員枠の問題はほとんど議論されていないと言います。最後の最後に官僚が唐突に入れた内容だったそうです。検討会のメンバーが証言するのですから、ほんとうでしょう。質の議論を横に置き、机の上で数を単純に計算しただけの解決法は改悪にもなりかねません。いかにも官僚らしいやり方ではないでしょうか。なんとスタジオのドクター20人全員が反対でした。
さて、ナースにも国家資格取得後にこのような臨床研修制度を作るべきという意見があり、検討が進められています。ナースもドクターと同じ専門職なんだからということなのでしょうが、私は正直言ってやや違和感を覚えています。それこそナース養成課程の看護教育そのものの改革が先ではないでしょうか。基礎的看護技術もろくに身につけないまま、病院デビューする新人ナースが多いということは以前にも書きましたが、それ自体を改善しておくことが先です。
看護教育をすべて大学教育にすることには私も賛成ですが、それには条件があります。大学教育自体を臨床重視に変えて欲しいのです。座学ばかり増やしても、いいナースは育ちません。患者としっかりしたコミュニケーションがとれ、基本的な看護技術を実践できるナースを育てることが教育の基本であるべきです。大学では臨床の教育が十分にできなかったから、卒業後、1年間、臨床研修を行なうというのは、看護とは何かという大きな目標を見失った発想ではないでしょうか?
看護大学の偉い教授でも、おそらくこの人は患者とのコミュニケーションは絶対にうまく取れないだろうなと思う人は少なくありません。こんな教授に学んだ学生が臨床能力を身につけられるはずがありません。看護とは患者に始まり、患者に終わるのではないでしょうか?
本来はドクターも同じだと思います。ドクター養成の医学部教育も臨床教育中心に変えるべきです。それをドイツの権威主義的医学を持ち込んだ結果として、臨床能力の欠如したドクターを養成してしまう大学になってしまったのです。そんな医学部教育の失敗を看護界が後から追いかける必要はないと私は思います。
たとえ新人看護師臨床研修制度を導入したとしても、その後、見直し論が出てきて、そもそもなんのためにこの制度を導入したのかという根本の議論がなされ、やっぱり看護教育そのものを変えなければならなかったんだという結論にいくことは間違いないと私には思えてならないのです。(以上)